
忘
れもしない1962年春、当時高校生だった私は、休みを利用して自転車で日光に出かけました。いろは坂はトラックに載せてもらい、湯の湖で昼食を取りました。フト湖を見ると、外国人が何かを湖に投げて居ました(今に思えばルアーフィッシングそのものでしたが)初めて見たルアーフィッシングは竿を上げる度に何かが掛かっている。私は不思議な気持ちでそれ見ていました。当時16歳のウブな?私は何かに取り付かれた様につたない英語で(今でも大した事は無いのですが)「What do you do?」と問い掛けました。そのアメリカ人の兵隊さんは、親切にも日本語で「これはルアーフィッシングと言う紳士のスポーツだ」と教えてくれ、さらに後日、軍の施設内の売店で竿とリールをプレゼントしてくれました。誰も持っていない玩具を手にした私の嬉しさをお解かり頂けるでしょうか?私が、まだまだ娯楽として認知されていないルアーフィッシングの魅力に取り付かれ、その可能性を追い掛ける様になったのは当然の成り行きだった様に思います。
湖から渓流へ、そして海へとエスカレートし、シイラや鰹を釣っていた頃、「パラオという所で浪人鰺という大きな魚が私の大好きな岸から釣れるらしい」と悪魔の囁きをした釣友が居ました。息子の30cm程度の地球儀を逆さにして見てもパラオなんて所は無い。大きな世界地図を買い、2人で見る事1時間・・・「アッ、もしかしてこれか?」何とも心もとない大きさではアーリマセンカ!ゴミが印刷ミスかと思えるほどに、本当にこんな小さな島で釣れるのか?と言う疑問が先に頭を過ぎりました。そして女房に「パラオと言う国に魚釣りに行っても良いか?」と恐る恐るお伺いを立てた所、何と、女房の親父の弟が、パラオ、それも私が行こうとしたペリリューで戦死しているとの事。そんな繋がりで第一関門はすんなりとクリヤーでした。
パラオの第一印象は、ここが竜宮城の舞台なのでは?と思ったほどでした。しかし、海の透明度と、人を寄せ付けない荒々しさの両面をもつペリリューの磯は、住んで居る人の心優しさとは正反対に、スパイクシューズの底を切り裂き、自然と魚を守っているかの様に、私達を拒み前に立ちはだかりました。当時は未だ、ルアーでの大物釣りのシステムが出来ていない時期でもありましたので、太い糸を結ぶ事さえ完全で無かった私達は、いくつものルアーをペリリューの海にプレゼントしていました。それでも、覚えたてのラインシステムで糸を結び、紺碧の海に向かってルアーを投げ続けました。私の投げたルアーが上手く泳いだ瞬間、数匹の大きな魚体が私のルアーに纏わり付き我先にと襲い掛かってきた瞬間のことは、今でもスローモーションで私の脳裏に蘇ってきます。「アッ」「アッ」の声だけで、興奮で膝はガクガクと震え、何も出来ずに呆然と佇むばかりの初パラオでした。その後、リベンジの権化と化した私のパラオへの執着は、3年前に亡くなった女房に「お父さんが釣りをやらなかったら、おと一軒家が建ったのに」と言われる程。当時の衝撃はそれほどだったのです。
そして、パラオに通い始めて8年位経った時期から、パラオに住みたい気持ちが強く芽生え始め、様々な出会いが様々な繋がりを作り、パラオで知り合った者同士が、このパラオで助け合いながら仕事を立ち上げました。ライフワークの釣りを「GT EXPRESS」として。パラオに住みたいと言う夢を、IZAKAYA「夢」として。私は今、パラオに根を下ろそうとしています。初めてパラオに来てから16年経って、私の大好きな釣りを通じてパラオに人の輪を広げたいと思い、釣りの同好会を作ろうとしています。未経験者大歓迎です。楽しみながら釣りをし、一緒にお酒を飲みたいと思う人が居たら「この指トマレ」気軽に声を掛けて下さい。 ![]() |
坂入 迪郎(サカイリ ミチオ)
|


